【ORIGINAL ARTICLE】 Baseball Salutes Jackie Robinson (2007/04/13)
【TRANSLATION】 1947年4月15日、ジャッキー・ロビンソンがブルックリンのエベッツフィールドに登場し、永遠に野球が変わることとなった。アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとして、彼が永遠に国を変えたと多くの人々が思っている。
60年後、ロビンソンは全米で記憶されている。日曜日に試合が行なわれた15球場で、ドジャーズスタジアムでの特別式典など彼の栄誉が称えられる。多くのチームのプレーヤーが彼の背番号42を着る。この背番号は、1997年のロビンソンのメジャーデビュー50年目に永久欠番となった。
ロビンソンは1919年に生まれた。それはアフリカ系アメリカ人の行動が規制されていた時代。彼は極めて優れたアスリートで、フットボール、バスケットボール、野球、陸上競技のスターだった。しかし、ロビンソンがメジャーリーグでプレーすることはその人種ゆえに禁止された。
1947年、ブランチ・リッキー(ブルックリンドジャーズの会長兼監督)がロビンソンと契約を交わした。リッキーは、ロビンソンには技術があるだけでなく、初の黒人プレイヤーとなるために挑戦する勇気があると信じていた。
しかし簡単なことではなかった。ロビンソンはしばしばファンからやじやあざけりを浴びせられた。しかし彼はスターになった。1962年、彼はアフリカ系アメリカ人初の野球殿堂入りを果たし、2005年には議会名誉黄金勲章(議会が一般人に与える最高の賞)が授与された。
野球界のカラーバリアを壊すことによって、ロビンソンは、野球のみならずその他様々な分野において、彼に続く多くの人々ために扉を開いた。引退後は、ロビンソンはコーヒー会社の役員として働いた。また、新聞コラムの執筆、銀行設立の援助も行なった。
ロビンソンは、約10年間メジャーでプレーした。日曜日、球場の内外で、彼の勇気と業績とが記憶されることになる。彼はかつて言った、「困難であろうとも正しいと信じたことをやれ」。この言葉は60年前と同様、今日も鳴り響いている。
【COMMENT】 4月15日は「ジャッキー・ロビンソン・デー」。この日、希望する選手はロビンソンの付けていた背番号42を着用してプレーすることができる。今年、ドジャーズとカージナルスは全員が「42」をつけた。田口も背番号42をつけ、8回に代走で登場。
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